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2006年09月27日(水)更新
【取材日記】vol.9 あらや滔々庵社長・永井隆幸さん
取材日記は「月刊 経営者会報」編集部員が、おもに中小企業の経営者の方への取材を通じて、感銘を受けたこと、ユニークな取り組みだと感じたことなどを綴るコーナーです。
今回は、経営者会報10月号の巻頭記事「異能経営者がゆく!」で取材させていただいた、あらや滔々庵の永井隆幸さんにまつわるエピソードをご紹介します。
◇ ◇ ◇
老舗の暖簾や看板が邪魔をして、なかなか思うような改革ができず、じり貧状態に陥っているといった話はよく聞かれます。
しかし、そもそも老舗とは何か。なぜ生き残ってこれたのか。絶えざる変革の歴史があったからではないかというのが編集部の考えです。
ここでご紹介させていただく「あらや滔々庵」さん(以下あらや)は、石川県加賀市の山代温泉で指折りの名門旅館。客室数は20で、小規模ではありますが、伝統の加賀料理にオリジナリティを加味した食事と、ゆきとどいたサービスで知られる、ファンの多い宿です。
江戸時代初期に、加賀前田藩の支藩・大聖寺藩の藩主から山代温泉で愛用していた湯壺の鍵を預かり、「荒屋」(あらや)の屋号を下賜されて以来、代々、荒屋源右衛門を名乗り、いまの若き経営者・永井隆幸さん(34歳)で十八代目だそうです。
山代温泉自体、日本でも有数の歴史を誇っており、行基上人が725年に発見したという伝説が残っています。あらやは、鎌倉時代初期にはすでに「半農半宿」だったといいますから、本当は十八代どころではないでしょう。
早稲田大学商学部卒の永井社長は、ゼミで観光事業を学んだほか、他大学の観光学科の外部向けの授業も受け、大学卒業後は一年間、ホテル業の専門学校に学びました。意気揚々と地元へ帰った永井さんを待っていたのは、客足の途絶えた温泉街という重い現実でした。
帰った年には阪神淡路大震災の影響で関西からの宿泊客が激減、翌年にはロシアの石油タンカー、ナホトカ号の事故で日本海が重油汚染。新鮮な魚貝が売り物の山代温泉は大きな打撃を受けました。
永井社長は赤字に陥った旅館の建て直しに着手、ご病気がちだったお父上に代わって経営の指揮を執ります。
まず業務の合間を縫って、50以上の全国の旅館を回り、理想の宿を模索したそうです。考えに考えて行き着いた結論は、「伝統ある温泉、日々、渾々と湧き続ける温泉へ感謝の気持ちを大切にすること」。源泉かけ流しを徹底するほか、お湯を楽しめるサービスを打ち出します。同時に、その気持ちを自分や社員の方々に言い聞かせ、お客にアピールするために、「あらや」から「あらや滔々庵」へと宿の名称を変更。「滔々」の二文字にその思いを込めたのです。立派なCIといえるでしょう。
さらに、「お客様の要望を聞くのは大切ですが、聞き入れてばかりでは特長のない宿になってしまう」と考え、「まず自分が泊まりたい宿にする」ことに専念していきました。
旅館では珍しい「ワインを飲める宿」という特長も、そうした永井社長の考えから打ち出されたもので、あらやでは100種類以上のワインを楽しむことができます。
そして、かつて明治時代、有栖川宮が定宿にした離れを改装した「有栖川山荘」。ここには和風のバーラウンジを設けてあり、外国からの宿泊客などにはとくに好評です。こうした努力が奏功し、客室稼働率は大幅に上がって、土日祝日の予約は3ヶ月先まで埋まるまでに。
その間、どんなに苦しくても、他の宿にありがちな、平日のみ女性客に限り何割引きといった価格設定はいっさい行わなかったといいます。それは、「何を見てとかいついらしたかで、お客様に不公平が生じるのは絶対に嫌だった」からだそうです。その言葉からは、老舗の矜恃が伝わってきました(下の写真は永井社長とお母様=女将さん、奥様=若女将さんです)。
永井社長は送迎車のハンドルも握るほか、食材を板場任せにせず、自分で近くの橋立漁港に買い付けに行き、有栖川山荘のバーではバーテンダーとしてお客を迎えることも少なくない。永井社長はこうおっしゃいます。
「不易流行の言葉の通り、伝統を大切にしてその土台の上に新たな取り組みをしていけばどんな時代にも生き残っていけると思います」
一昨年、永井社長は地元の商店と旅館の後継者や若手経営者とで、街作りを推進するNPO法人『はづちを』を設立しました。自社だけではなく、温泉街全体の活性化に取り組む永井社長を、陰ながら応援していきたいと思っています。
◇ ◇ ◇
■あらや滔々庵 http://www.araya-totoan.com/
■関連記事が「月刊 経営者会報」10月号に掲載されています
*「月刊 経営者会報」は中小企業経営者の皆様のためのブレーンです。詳細・ご購読に関しては http://www.njh.co.jp/njs/keikai.htm をご参照ください。
今回は、経営者会報10月号の巻頭記事「異能経営者がゆく!」で取材させていただいた、あらや滔々庵の永井隆幸さんにまつわるエピソードをご紹介します。
◇ ◇ ◇
老舗の暖簾や看板が邪魔をして、なかなか思うような改革ができず、じり貧状態に陥っているといった話はよく聞かれます。
しかし、そもそも老舗とは何か。なぜ生き残ってこれたのか。絶えざる変革の歴史があったからではないかというのが編集部の考えです。
ここでご紹介させていただく「あらや滔々庵」さん(以下あらや)は、石川県加賀市の山代温泉で指折りの名門旅館。客室数は20で、小規模ではありますが、伝統の加賀料理にオリジナリティを加味した食事と、ゆきとどいたサービスで知られる、ファンの多い宿です。
江戸時代初期に、加賀前田藩の支藩・大聖寺藩の藩主から山代温泉で愛用していた湯壺の鍵を預かり、「荒屋」(あらや)の屋号を下賜されて以来、代々、荒屋源右衛門を名乗り、いまの若き経営者・永井隆幸さん(34歳)で十八代目だそうです。
山代温泉自体、日本でも有数の歴史を誇っており、行基上人が725年に発見したという伝説が残っています。あらやは、鎌倉時代初期にはすでに「半農半宿」だったといいますから、本当は十八代どころではないでしょう。
早稲田大学商学部卒の永井社長は、ゼミで観光事業を学んだほか、他大学の観光学科の外部向けの授業も受け、大学卒業後は一年間、ホテル業の専門学校に学びました。意気揚々と地元へ帰った永井さんを待っていたのは、客足の途絶えた温泉街という重い現実でした。
帰った年には阪神淡路大震災の影響で関西からの宿泊客が激減、翌年にはロシアの石油タンカー、ナホトカ号の事故で日本海が重油汚染。新鮮な魚貝が売り物の山代温泉は大きな打撃を受けました。
永井社長は赤字に陥った旅館の建て直しに着手、ご病気がちだったお父上に代わって経営の指揮を執ります。
まず業務の合間を縫って、50以上の全国の旅館を回り、理想の宿を模索したそうです。考えに考えて行き着いた結論は、「伝統ある温泉、日々、渾々と湧き続ける温泉へ感謝の気持ちを大切にすること」。源泉かけ流しを徹底するほか、お湯を楽しめるサービスを打ち出します。同時に、その気持ちを自分や社員の方々に言い聞かせ、お客にアピールするために、「あらや」から「あらや滔々庵」へと宿の名称を変更。「滔々」の二文字にその思いを込めたのです。立派なCIといえるでしょう。
さらに、「お客様の要望を聞くのは大切ですが、聞き入れてばかりでは特長のない宿になってしまう」と考え、「まず自分が泊まりたい宿にする」ことに専念していきました。
旅館では珍しい「ワインを飲める宿」という特長も、そうした永井社長の考えから打ち出されたもので、あらやでは100種類以上のワインを楽しむことができます。
そして、かつて明治時代、有栖川宮が定宿にした離れを改装した「有栖川山荘」。ここには和風のバーラウンジを設けてあり、外国からの宿泊客などにはとくに好評です。こうした努力が奏功し、客室稼働率は大幅に上がって、土日祝日の予約は3ヶ月先まで埋まるまでに。
その間、どんなに苦しくても、他の宿にありがちな、平日のみ女性客に限り何割引きといった価格設定はいっさい行わなかったといいます。それは、「何を見てとかいついらしたかで、お客様に不公平が生じるのは絶対に嫌だった」からだそうです。その言葉からは、老舗の矜恃が伝わってきました(下の写真は永井社長とお母様=女将さん、奥様=若女将さんです)。
永井社長は送迎車のハンドルも握るほか、食材を板場任せにせず、自分で近くの橋立漁港に買い付けに行き、有栖川山荘のバーではバーテンダーとしてお客を迎えることも少なくない。永井社長はこうおっしゃいます。
「不易流行の言葉の通り、伝統を大切にしてその土台の上に新たな取り組みをしていけばどんな時代にも生き残っていけると思います」
一昨年、永井社長は地元の商店と旅館の後継者や若手経営者とで、街作りを推進するNPO法人『はづちを』を設立しました。自社だけではなく、温泉街全体の活性化に取り組む永井社長を、陰ながら応援していきたいと思っています。
◇ ◇ ◇
■あらや滔々庵 http://www.araya-totoan.com/
■関連記事が「月刊 経営者会報」10月号に掲載されています
(編集部・酒井俊宏)
*「月刊 経営者会報」は中小企業経営者の皆様のためのブレーンです。詳細・ご購読に関しては http://www.njh.co.jp/njs/keikai.htm をご参照ください。
2006年08月18日(金)更新
【取材日記】vol.8 シオザワ・塩澤好久さん
取材日記は「月刊 経営者会報」編集部員が、おもに中小企業の経営者の方への取材を通じて、感銘を受けたこと、ユニークな取り組みだと感じたことなどを綴るコーナーです。
今回は、経営者会報8月号の特集「会社の未来を託す人づくり」で取材させていただいた、シオザワの塩澤好久さんにまつわるエピソードをご紹介します。
◇ ◇ ◇
東京都中央区日本橋に本社を構えるシオザワは、紙卸業を営み、来年で創業70周年という老舗です。
三代目の塩澤好久さんは、大変教育熱心な方です。先代でいまは亡き好一氏にもなんどか取材させていただいたことがありますが、そのお父上も同様に教育熱心な方でした。
会社を継ぐころ、塩澤さんは、社員の人たちが、お元気だった先代に頼り切りで、自ら考えようとしない傾向があることに危機感を抱いて、抜本的な改革に着手したそうです。
たとえば、社長塾。不定期に社員(有志)を集めて、さまざまな勉強会を開いて、社員の意識が向上するのを待ちました。
一方で、成績の上がらない営業社員には、毎月一回、「ワーストの会」と名付けた社長への報告の場を設け、そこではいっさい叱責はせず、「で、来月はどんなことに取り組むかな」と、行動を変えるきっかけを与え続けました。そのうちに、ある社員が、「(担当エリアである)千葉県内の印刷業者をすべて回る」と宣言して、それを成し遂げてしまった。この社員の方は、現在なんと部長に就き、大変ご活躍されているとのこと。
自分で気づき、行動を変えることさえできれば、誰だって、きっと成果が上がるはずだ、という信念を強くした出来事だったそうです。
そうした改革・指導が実を結び、同社は機密文書の廃棄・リサイクルや段ボール家具など、ユニークで時代を先取りした取り組みにも成功しています。
塩澤さんが素晴らしいのは、どういった取り組みでも明るく着手してこられたことです。
最近でもこんな“改革”が……。
毎週一度の朝礼で、社員の方がスピーチをするのが、持ち回りになっていたのを、当日、その場でくじを引き、当たりを引いてしまった人が話すやり方に変えたそうです。持ち回りだと準備できますが、いつも仕事について考えていないと、とっさには話ができません。
テーマは3か月くらいごとで変えて、常時3つか4つ、これもくじをひいて何について話をするのか決めるそうです。社員に高いレベルを求めつつ、ゲーム感覚で楽しくやる。だからこそ長続きするのかもしれません。
塩澤さんは、どんな取り組みに着手する際も、「これをやることで人は育つのか」をまず考えるそうです。私の知る限り、ここまで熱心に、そして楽しそうに社員教育をされる社長さんは滅多におられません。本当に素晴らしい。
きっと塩澤さんは、よくいわれる「2・6・2」の法則は、たぶん信じていないと思います。そのことで、社員さんも社長の期待に応えようと頑張る、そんな相互の信頼感が社内に満ちあふれた会社でした。
◇ ◇ ◇
■株式会社シオザワ http://www.shiozawa.co.jp/http://www.shiozawa.co.jp/
■関連記事が「月刊 経営者会報」8月号に掲載されています
*「月刊 経営者会報」は中小企業経営者の皆様のためのブレーンです。詳細・ご購読に関しては http://www.njh.co.jp/njs/keikai.htm をご参照ください。
今回は、経営者会報8月号の特集「会社の未来を託す人づくり」で取材させていただいた、シオザワの塩澤好久さんにまつわるエピソードをご紹介します。
◇ ◇ ◇
東京都中央区日本橋に本社を構えるシオザワは、紙卸業を営み、来年で創業70周年という老舗です。
三代目の塩澤好久さんは、大変教育熱心な方です。先代でいまは亡き好一氏にもなんどか取材させていただいたことがありますが、そのお父上も同様に教育熱心な方でした。
会社を継ぐころ、塩澤さんは、社員の人たちが、お元気だった先代に頼り切りで、自ら考えようとしない傾向があることに危機感を抱いて、抜本的な改革に着手したそうです。
たとえば、社長塾。不定期に社員(有志)を集めて、さまざまな勉強会を開いて、社員の意識が向上するのを待ちました。
一方で、成績の上がらない営業社員には、毎月一回、「ワーストの会」と名付けた社長への報告の場を設け、そこではいっさい叱責はせず、「で、来月はどんなことに取り組むかな」と、行動を変えるきっかけを与え続けました。そのうちに、ある社員が、「(担当エリアである)千葉県内の印刷業者をすべて回る」と宣言して、それを成し遂げてしまった。この社員の方は、現在なんと部長に就き、大変ご活躍されているとのこと。
自分で気づき、行動を変えることさえできれば、誰だって、きっと成果が上がるはずだ、という信念を強くした出来事だったそうです。
そうした改革・指導が実を結び、同社は機密文書の廃棄・リサイクルや段ボール家具など、ユニークで時代を先取りした取り組みにも成功しています。
塩澤さんが素晴らしいのは、どういった取り組みでも明るく着手してこられたことです。
最近でもこんな“改革”が……。
毎週一度の朝礼で、社員の方がスピーチをするのが、持ち回りになっていたのを、当日、その場でくじを引き、当たりを引いてしまった人が話すやり方に変えたそうです。持ち回りだと準備できますが、いつも仕事について考えていないと、とっさには話ができません。
テーマは3か月くらいごとで変えて、常時3つか4つ、これもくじをひいて何について話をするのか決めるそうです。社員に高いレベルを求めつつ、ゲーム感覚で楽しくやる。だからこそ長続きするのかもしれません。
塩澤さんは、どんな取り組みに着手する際も、「これをやることで人は育つのか」をまず考えるそうです。私の知る限り、ここまで熱心に、そして楽しそうに社員教育をされる社長さんは滅多におられません。本当に素晴らしい。
きっと塩澤さんは、よくいわれる「2・6・2」の法則は、たぶん信じていないと思います。そのことで、社員さんも社長の期待に応えようと頑張る、そんな相互の信頼感が社内に満ちあふれた会社でした。
◇ ◇ ◇
■株式会社シオザワ http://www.shiozawa.co.jp/http://www.shiozawa.co.jp/
■関連記事が「月刊 経営者会報」8月号に掲載されています
(編集部・酒井俊宏)
*「月刊 経営者会報」は中小企業経営者の皆様のためのブレーンです。詳細・ご購読に関しては http://www.njh.co.jp/njs/keikai.htm をご参照ください。
2006年06月28日(水)更新
【取材日記】vol.7 木の城たいせつ・創業オーナー山口昭さん
取材日記は「月刊 経営者会報」編集部員が、おもに中小企業の経営者の方への取材を通じて、感銘を受けたこと、ユニークな取り組みだと感じたことなどを綴るコーナーです。
今回は、経営者会報7月号の巻頭カラー記事「異能経営者がゆく!」で取材させていただいた、木の城たいせつ創業オーナーの山口昭さんにまつわるエピソードをご紹介します。
◇ ◇ ◇
北海道へ行くと、本州や四国・九州では見られない、V字形の屋根をした堅牢な家を見かけます。
その大半は、北海道夕張郡栗山町に本拠を置く、㈱木の城たいせつが手がけたものです。V字形の屋根で雪を地下の下水に流すという、雪下ろしの必要のない家(耐雪住宅)です。
同社創業者の山口昭さんの人生は、常に挑戦の連続だったといいます。その一端を記しますと、
・雪下ろしの必要のない堅牢な耐雪住宅を開発し、それ一本に絞る
・すべてを自社でてがける直営施工を昭和40年代に実施
・冬場は休むのが当たり前だった北海道の建設業界で、作業時の雪や寒さ対策を施し、通年施工を可能にしたこと
そのどれもが、一部同業者からのバッシングを浴びたといいます。
こうした取り組みの根っこにあるのは、山口さんの北海道という土地、そこで暮らす人々への揺るぎない愛情です。
北海道の人たちは一般に郷土愛が強いといわれます。開拓民の子孫が多いため、「自分たちで築いた」という意識が、他の府県よりも強いからだといいます。
山口さんのお祖父様も、北海道開拓屯田兵だったそうですが、その影響が大きいのでしょう。
同社では「地産地消」の理念を大事にしています。
南方の木を使うより、寒さに適しているという考えと、輸送にかかるエネルギーが小さいことから、北海道の木しか使わないそうです。
また、普通なら捨てられてしまう間伐材や小径木(しょうけいぼく)も、宮大工の伝統技術を使って組み合わせ、部材にしています。
さらに、削って出る木くずは、部材を乾燥させる際の燃料に使用する。非常に環境負荷の低い、生産体制を作りあげているのです。
こうした取り組みが内外から注目を浴び、同社の工場を見学に訪れる海外の研究者、国内の工務店関係者があとを絶ちません。
山口さんはこうおっしゃいます。
「大量生産大量消費。それで人間は幸せになったのか」
もちろん、商品・商材が地球をまたにかけて流通するから経済が発展するという考えには妥当性はあるでしょう。しかし、山口さんの問いかけは、今後の企業のあるべき姿として、傾聴に値すると思います。
◇ ◇ ◇
■株式会社木の城たいせつ http://www.kinoshiro.com/
■関連記事が「月刊 経営者会報」7月号に掲載されています
*「月刊 経営者会報」は中小企業経営者の皆様のためのブレーンです。詳細・ご購読に関しては http://www.njh.co.jp/njs/keikai.htm をご参照ください。
今回は、経営者会報7月号の巻頭カラー記事「異能経営者がゆく!」で取材させていただいた、木の城たいせつ創業オーナーの山口昭さんにまつわるエピソードをご紹介します。
◇ ◇ ◇
北海道へ行くと、本州や四国・九州では見られない、V字形の屋根をした堅牢な家を見かけます。
その大半は、北海道夕張郡栗山町に本拠を置く、㈱木の城たいせつが手がけたものです。V字形の屋根で雪を地下の下水に流すという、雪下ろしの必要のない家(耐雪住宅)です。
同社創業者の山口昭さんの人生は、常に挑戦の連続だったといいます。その一端を記しますと、
・雪下ろしの必要のない堅牢な耐雪住宅を開発し、それ一本に絞る
・すべてを自社でてがける直営施工を昭和40年代に実施
・冬場は休むのが当たり前だった北海道の建設業界で、作業時の雪や寒さ対策を施し、通年施工を可能にしたこと
そのどれもが、一部同業者からのバッシングを浴びたといいます。
こうした取り組みの根っこにあるのは、山口さんの北海道という土地、そこで暮らす人々への揺るぎない愛情です。
北海道の人たちは一般に郷土愛が強いといわれます。開拓民の子孫が多いため、「自分たちで築いた」という意識が、他の府県よりも強いからだといいます。
山口さんのお祖父様も、北海道開拓屯田兵だったそうですが、その影響が大きいのでしょう。
同社では「地産地消」の理念を大事にしています。
南方の木を使うより、寒さに適しているという考えと、輸送にかかるエネルギーが小さいことから、北海道の木しか使わないそうです。
また、普通なら捨てられてしまう間伐材や小径木(しょうけいぼく)も、宮大工の伝統技術を使って組み合わせ、部材にしています。
さらに、削って出る木くずは、部材を乾燥させる際の燃料に使用する。非常に環境負荷の低い、生産体制を作りあげているのです。
こうした取り組みが内外から注目を浴び、同社の工場を見学に訪れる海外の研究者、国内の工務店関係者があとを絶ちません。
山口さんはこうおっしゃいます。
「大量生産大量消費。それで人間は幸せになったのか」
もちろん、商品・商材が地球をまたにかけて流通するから経済が発展するという考えには妥当性はあるでしょう。しかし、山口さんの問いかけは、今後の企業のあるべき姿として、傾聴に値すると思います。
◇ ◇ ◇
■株式会社木の城たいせつ http://www.kinoshiro.com/
■関連記事が「月刊 経営者会報」7月号に掲載されています
(編集部・酒井俊宏)
*「月刊 経営者会報」は中小企業経営者の皆様のためのブレーンです。詳細・ご購読に関しては http://www.njh.co.jp/njs/keikai.htm をご参照ください。
2006年05月17日(水)更新
【取材日記】vol.6 長島精工社長・長島善之さん
取材日記は「月刊 経営者会報」編集部員が、おもに中小企業の経営者の方への取材を通じて、感銘を受けたこと、ユニークな取り組みだと感じたことなどを綴るコーナーです。
今回は、経営者会報5月号の巻頭カラー記事「異能経営者がゆく!」で取材させていただいた、長島精工社長・長島善之さんにまつわるエピソードをご紹介します。
◇ ◇ ◇
長島精工さんは、精密金型の製造には欠かせない、研削盤という工作機械のメーカーで、日本ではオンリーワンの存在です。
研削盤とはなにか、ご存じない方のために経営者会報の記事から一部抜粋しましょう。
「……研削盤は金属など工作物の表面を平らにする機械で、加工部分は、工作物を乗せて前後・左右・上下に移動するテーブルと、研削するための砥石車とで構成される。テーブルがいかに円滑に動くかが動作精度を決定するが、それはテーブルの土台となる面とテーブルとの接触面の仕上げにかかっている。
長島精工では、双方の接触面に微細な凹凸を施し、山の部分がそれぞれ完全に揃うように加工している。こうすることで谷の部分に油が入り込み、スムースな動作が可能になる。凹凸をつくり、山を揃える工程は「三面摺り」といい、「キサゲ」というノミのような工具を使って技術者が手作業で行なう。この方法を採っている企業は国内では同社だけ。職人の手作業が、精密金型という日本の最先端技術を支えているのである……」
長島社長は、優秀な技能工を育成し、この技術を社を挙げて磨き続けています。43名の社員さんのうち、一級技能士が14名、二級技能士が19名。現場の人はほとんど有資格者で占められています。ここまで有資格者比率の高い企業は稀です。
同社では、できあがった研削盤には、社員さんの名前を記入したネームプレートを取り付けるそうです(こういうものです↓)。
それにはこんなエピソードがありました。
かつて三菱重工に勤めていた長島さんは、そのころ、ホンダの鈴鹿工場に納める工作機械をつくったとき、型番の表示プレートに、こっそりご自分のイニシャル「N・Y」を彫っておいたそうです。
研削盤の製造に本格的に取り組む前は、工作機械の修理もしていた長島さんは、偶然、ホンダの鈴鹿工場に修理におもむいたとき、その機械が20年近く経つのに現役で動いているのを見たそうです。イニシャルでわかったといいます。
「この機械、何年経っても調子がいいんだよ」
と先方の担当者に言われて、思わず感動して涙が出たそうです。
そのことがあって、同社では、写真のような、ネームプレートを取り付けるようにしたのでした。
長島さんはこうおっしゃいます。
「3000円の清水焼でも作者の銘を入れるのに、何千万円もして10年保証までしている機械に名前入れないほうがおかしい。若い連中には、『もしうちが潰れても、君らが作った機械だという証は機械が現役でいるかぎり残る。だから精魂込めて作りなさい』って言っています」
どうして長島精工さんでは熟練の技術者をどんどん育てることができるのか、高い技術レベルを保ち続けられるのか──。モノづくりにかけた、長島さんのこの姿勢が、すべての源なのではないかと思いました。
◇ ◇ ◇
■長島精工株式会社 http://www.nagashima-seiko.co.jp/
■関連記事が「月刊 経営者会報」5月号に掲載されています
*「月刊 経営者会報」は中小企業経営者の皆様のためのブレーンです。詳細・ご購読に関しては http://www.njh.co.jp/njs/keikai.htm をご参照ください。
今回は、経営者会報5月号の巻頭カラー記事「異能経営者がゆく!」で取材させていただいた、長島精工社長・長島善之さんにまつわるエピソードをご紹介します。
◇ ◇ ◇
長島精工さんは、精密金型の製造には欠かせない、研削盤という工作機械のメーカーで、日本ではオンリーワンの存在です。
研削盤とはなにか、ご存じない方のために経営者会報の記事から一部抜粋しましょう。
「……研削盤は金属など工作物の表面を平らにする機械で、加工部分は、工作物を乗せて前後・左右・上下に移動するテーブルと、研削するための砥石車とで構成される。テーブルがいかに円滑に動くかが動作精度を決定するが、それはテーブルの土台となる面とテーブルとの接触面の仕上げにかかっている。
長島精工では、双方の接触面に微細な凹凸を施し、山の部分がそれぞれ完全に揃うように加工している。こうすることで谷の部分に油が入り込み、スムースな動作が可能になる。凹凸をつくり、山を揃える工程は「三面摺り」といい、「キサゲ」というノミのような工具を使って技術者が手作業で行なう。この方法を採っている企業は国内では同社だけ。職人の手作業が、精密金型という日本の最先端技術を支えているのである……」
長島社長は、優秀な技能工を育成し、この技術を社を挙げて磨き続けています。43名の社員さんのうち、一級技能士が14名、二級技能士が19名。現場の人はほとんど有資格者で占められています。ここまで有資格者比率の高い企業は稀です。
同社では、できあがった研削盤には、社員さんの名前を記入したネームプレートを取り付けるそうです(こういうものです↓)。
それにはこんなエピソードがありました。
かつて三菱重工に勤めていた長島さんは、そのころ、ホンダの鈴鹿工場に納める工作機械をつくったとき、型番の表示プレートに、こっそりご自分のイニシャル「N・Y」を彫っておいたそうです。
研削盤の製造に本格的に取り組む前は、工作機械の修理もしていた長島さんは、偶然、ホンダの鈴鹿工場に修理におもむいたとき、その機械が20年近く経つのに現役で動いているのを見たそうです。イニシャルでわかったといいます。
「この機械、何年経っても調子がいいんだよ」
と先方の担当者に言われて、思わず感動して涙が出たそうです。
そのことがあって、同社では、写真のような、ネームプレートを取り付けるようにしたのでした。
長島さんはこうおっしゃいます。
「3000円の清水焼でも作者の銘を入れるのに、何千万円もして10年保証までしている機械に名前入れないほうがおかしい。若い連中には、『もしうちが潰れても、君らが作った機械だという証は機械が現役でいるかぎり残る。だから精魂込めて作りなさい』って言っています」
どうして長島精工さんでは熟練の技術者をどんどん育てることができるのか、高い技術レベルを保ち続けられるのか──。モノづくりにかけた、長島さんのこの姿勢が、すべての源なのではないかと思いました。
◇ ◇ ◇
■長島精工株式会社 http://www.nagashima-seiko.co.jp/
■関連記事が「月刊 経営者会報」5月号に掲載されています
(編集部・酒井俊宏)
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2006年04月28日(金)更新
【取材日記】vol.5 都市デザインシステム社長・梶原文生さん
取材日記は「月刊 経営者会報」編集部員が、おもに中小企業の経営者の方への取材を通じて、感銘を受けたこと、ユニークな取り組みだと感じたことなどを綴るコーナーです。
今回は、経営者会報5月号の特集記事「社会に貢献してこそ会社は生き残る」で取材させていただいた、都市デザインシステム社長・梶原文生さんにまつわるエピソードをご紹介します。
◇ ◇ ◇
都市デザインシステムは、コーポラティブハウスという、設計やデザイン、施工で自由度の高い、都市型の集合住宅の企画から設計、コーディネートまで手がけています。
同社では、創業時から最低でも利益の1パーセントは社会貢献に使うということを心がけ、近年では、同社だからこそできることで貢献していこうという方向にシフトしました。
なんと2002年には、ベトナムのホーチミン市に、ストリートチルドレンのための施設、「ベトナム・キッズ・アース・ホーム」を、現地の建設業者やボランティア団体と協力して、造り上げてしまいました。ここでは現在、40名の子供たちが暮らしていて学ぶ場も用意されているそうです。
下は、竣工なったキッズ・ホームで撮られた、パーティーに訪れた社員の皆さんと現地の子供たちとの記念写真です。
家はあっても修学機会のない近隣の子供たちもここへ通って学ぶそうです。その数実に約160名といいます。
詳しくは本誌記事をぜひご覧戴きたいと思いますが、こうした国境を越えた社会貢献活動は、社員の皆さんにもよい影響をもたらしているそうです。
なぜ同社がこうした社会貢献に熱心なのかというと、社長の梶原さんが、そもそも、社会貢献活動をしたくて、高校生のときに起業を決意したことに始まっています。三つ上のお兄さんを、ご自身物心ついたくらいのときに交通事故で亡くした梶原さんは、ご両親の悲しみを感じながら成長され、子供が死ぬことほど悲しいことはないと考えるようになったそうです。
最初は医者になろうと思ったそうですが、血を見るのが苦手な自分に気づいて、社会的に成功して、そのうえで貢献していこうと考えたとおっしゃいます。
いま40歳の梶原さんは、20年以上もその思いを貫いてこられたわけで、これはすごいことだと思います。
梶原さんは、そうした活動をしていることをまったく隠しません。協力者を常に求めておられるからです。
「1社だけでは限界があります。賛同して、一緒にやってくださる経営者や企業が増えれば、それだけ大きなことができて、助かる子も増えますから」
以前、実は盛んに社会貢献活動をしている某大企業のトップにお会いしたとき、その方は梶原社長とは反対に、あまり自社でしていることを表向きにしたがらない。その理由を聞きましたら、こうおっしゃっていました。
「いいことっていうのは、あまり自分で言わないほうがいい。黙ってやっていれば、世間がいいほうに解釈してくれるからね」
もちろん理由や動機がなんであれ、社会貢献をすることは素晴らしい、と思います。
でも、自分の会社をよく思われたいという動機のその経営者と、梶原さんのように、ピュアな思いで、人にどう思われようと、困っている人を助けようと行動する方とでは、圧倒的に梶原さんを応援したくなるのは、私だけではないと思います。
その梶原さん率いる都市デザインシステムは、この秋にオープンするテーマパーク「キッザニア東京」(http://www.kidzania.jp/)の運営会社にも出資しておられます。
これはメキシコで成功した、子供たちのためのテーマパークで、子供たちに仕事の楽しさや自分の好きなこと、やりたいことを発見してもらうというものです。詳しくは上記URLをクリックしてみてください。
ベトナムで家のない子供たちを救い、きょう食べるものがない、住む場所がないという国ではない日本においては、子供たちに夢を与える──。そんな梶原さんの夢は、将来、リタイアしたら、世界中の身寄りのない子を集められるだけ集めて、その子たちが生活し、学ぶ場も用意したドミトリーハウスを作ることだそうです。
梶原社長はこうおっしゃいます。
「将来その子たちが医師や実業家、政治家になって、その母国に貢献できたらいいなと思っているんです」
微力ながら、同社と梶原社長を心の底から応援したいと思っています。
◇ ◇ ◇
■株式会社都市デザインシステム http://www.uds-net.co.jp/
■関連記事が「月刊 経営者会報」5月号に掲載されています
*「月刊 経営者会報」は中小企業経営者の皆様のためのブレーンです。詳細・ご購読に関しては http://www.njh.co.jp/njs/keikai.htm をご参照ください。
今回は、経営者会報5月号の特集記事「社会に貢献してこそ会社は生き残る」で取材させていただいた、都市デザインシステム社長・梶原文生さんにまつわるエピソードをご紹介します。
◇ ◇ ◇
都市デザインシステムは、コーポラティブハウスという、設計やデザイン、施工で自由度の高い、都市型の集合住宅の企画から設計、コーディネートまで手がけています。
同社では、創業時から最低でも利益の1パーセントは社会貢献に使うということを心がけ、近年では、同社だからこそできることで貢献していこうという方向にシフトしました。
なんと2002年には、ベトナムのホーチミン市に、ストリートチルドレンのための施設、「ベトナム・キッズ・アース・ホーム」を、現地の建設業者やボランティア団体と協力して、造り上げてしまいました。ここでは現在、40名の子供たちが暮らしていて学ぶ場も用意されているそうです。
下は、竣工なったキッズ・ホームで撮られた、パーティーに訪れた社員の皆さんと現地の子供たちとの記念写真です。
家はあっても修学機会のない近隣の子供たちもここへ通って学ぶそうです。その数実に約160名といいます。
詳しくは本誌記事をぜひご覧戴きたいと思いますが、こうした国境を越えた社会貢献活動は、社員の皆さんにもよい影響をもたらしているそうです。
なぜ同社がこうした社会貢献に熱心なのかというと、社長の梶原さんが、そもそも、社会貢献活動をしたくて、高校生のときに起業を決意したことに始まっています。三つ上のお兄さんを、ご自身物心ついたくらいのときに交通事故で亡くした梶原さんは、ご両親の悲しみを感じながら成長され、子供が死ぬことほど悲しいことはないと考えるようになったそうです。
最初は医者になろうと思ったそうですが、血を見るのが苦手な自分に気づいて、社会的に成功して、そのうえで貢献していこうと考えたとおっしゃいます。
いま40歳の梶原さんは、20年以上もその思いを貫いてこられたわけで、これはすごいことだと思います。
梶原さんは、そうした活動をしていることをまったく隠しません。協力者を常に求めておられるからです。
「1社だけでは限界があります。賛同して、一緒にやってくださる経営者や企業が増えれば、それだけ大きなことができて、助かる子も増えますから」
以前、実は盛んに社会貢献活動をしている某大企業のトップにお会いしたとき、その方は梶原社長とは反対に、あまり自社でしていることを表向きにしたがらない。その理由を聞きましたら、こうおっしゃっていました。
「いいことっていうのは、あまり自分で言わないほうがいい。黙ってやっていれば、世間がいいほうに解釈してくれるからね」
もちろん理由や動機がなんであれ、社会貢献をすることは素晴らしい、と思います。
でも、自分の会社をよく思われたいという動機のその経営者と、梶原さんのように、ピュアな思いで、人にどう思われようと、困っている人を助けようと行動する方とでは、圧倒的に梶原さんを応援したくなるのは、私だけではないと思います。
その梶原さん率いる都市デザインシステムは、この秋にオープンするテーマパーク「キッザニア東京」(http://www.kidzania.jp/)の運営会社にも出資しておられます。
これはメキシコで成功した、子供たちのためのテーマパークで、子供たちに仕事の楽しさや自分の好きなこと、やりたいことを発見してもらうというものです。詳しくは上記URLをクリックしてみてください。
ベトナムで家のない子供たちを救い、きょう食べるものがない、住む場所がないという国ではない日本においては、子供たちに夢を与える──。そんな梶原さんの夢は、将来、リタイアしたら、世界中の身寄りのない子を集められるだけ集めて、その子たちが生活し、学ぶ場も用意したドミトリーハウスを作ることだそうです。
梶原社長はこうおっしゃいます。
「将来その子たちが医師や実業家、政治家になって、その母国に貢献できたらいいなと思っているんです」
微力ながら、同社と梶原社長を心の底から応援したいと思っています。
◇ ◇ ◇
■株式会社都市デザインシステム http://www.uds-net.co.jp/
■関連記事が「月刊 経営者会報」5月号に掲載されています
(編集部・酒井俊宏)
*「月刊 経営者会報」は中小企業経営者の皆様のためのブレーンです。詳細・ご購読に関しては http://www.njh.co.jp/njs/keikai.htm をご参照ください。
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